会の歩み その2
2.昭和30年代(西暦1955年~)
行事としては、当時ブームであったダンスパーテーや流行し始めたゴルフ会等が頻繁に行われました。親睦会としてダークダックス,林家三平、江戸家猫八師匠等を招いての豪華な娯楽会等も開催されました。昭和32年の慶應義塾「100周年記念」に当たり、当会からは6万円を寄付しました。会長は31年に島崎敬夫君、38年に石河幹武君に夫々引継がれました。昭和38年からは鵠沼海岸で夏期地引網大会が行われ、その後毎年開催されました。昭和39年に軍艦見学会なるものが実行され、これは横須賀三田会の主唱による横須賀、鎌倉、逗葉、藤沢等の湘南地区の各地域三田会が合同して横須賀港内の自衛艦2隻に分乗、東京湾内を体験航行しました。参加人数は各地三田会から合計約250人でした。

3.昭和40年代(西暦1965年~)
この時代、夏期地引網大会は毎年7月に行われ、年々参加者も増大し、内部的にも次第に充実して行った時代でありました。バス旅行が箱根、伊豆、横須賀方面へ盛んに企画、実施され、工場見学会等も行われました。また、珍しい行事として、慶早両校の舞踏研究会の学生約60名を招いての社交ダンス競技会が開かれ、モダン4種目の華麗なる妙技を披露したこともありました。審査は当時のA級プロダンサー須藤京一氏の単独審査で行われ、塾の舞踏研究会に軍配が上がりました。
昭和45年には工学部が小金井から日吉の矢上台に移転したことに伴い、その建設資金募金を行って20万円を学校に寄付しました。会長は48年に死去された石河幹武君から萱野章次郎君に代わりました。
4.昭和50年代(西暦1975年~)
50年代前半は40年代から引続き、毎年夏期地引網大会が人気で盛大でしたが、次第に魚が獲れなくなり、56年からは中止してサマーカーニバルと名称を変えました。内容も綱引き、宝探し等の一種の運動会形式を取り、毎年7月の最終日 曜日に決めて行われました。サマーカーニバルは評判が頗る良く、年々盛大になりました。抽選会の賞品は先輩、有志の方々からの援助に負うところが大きく、会の財政に大きなプラスになりました。
総会も新年会となり、新年1月20日前後の土曜日に市内の平安閣(現在のカルチャーボンズ)で行われました。この頃から毎年新年会には幹事である斉藤光哉君主宰のハワイアンバンド(シルバーレイ:メンバー全員塾員)の友情出演が行われて会のムードを高め、現在も続いています。また、新年会の抽選会にも諸先輩方からの寄贈賞品が多く、新年会の豪華さに花を添えました。
57年は慶應義塾の創立「125周年記念」の募金を行い、89万円が学校に寄付されました。会長は萱野章次郎君の死去に伴い、安部政寿君が就任。また、この年から毎年藤沢三田会会報が発行されるようになりました。