会の歩み その1

                       65年の歩み

 藤沢三田会は昭和22年に発足し、諸先輩のご努力により今日が有る事を深く感謝する次第です。半世紀を越える当会の小史をご一読いただければ幸いです。

1.昭和20年代(西暦1947年~) 藤沢三田会の母胎は昭和の初め頃から湘南地方に居住し、東海道線の列車で東京へ通学する塾生がお互いに親睦をはかるために自然発生的に作られた「藤沢以西の塾生の集まり」と云う意味から藤西会と呼ばれたものです。昭和22年と云えば戦後未だ日も浅く、焦土と化した日本全土が精神的混迷と食糧難から来る飢餓地獄で正に混沌たる時代でした。藤沢市が市政を布いたのは昭和15年、当時の藤沢市の人口は9万人でした。

有志約20名が発起人となり、会長に平尾賛之助君を仰ぎ、会員数約50名、一般年会費100円、幹事役200円で発足しました。何しろ会員数が少なく、資金的にも乏しかったため、行事的なものを実施するのは極めて困難でしたが、先輩の方々から寄付を仰ぎ、23年後半には初めての総会を開きました。運動会、野球大会、映画会、音楽会(藤山一郎君を招いて)等を湘南学園の運動場や講堂を拝借したり、鵠沼海岸の砂浜を利用し、総会は鵠沼藤が谷の三越クラブを利用させていただきました。 当時の行事で珍しいのは「ラジオ体操の会」です。近隣の子供達のために幹事有志が近くの空地や湘南学園の校庭を拝借し、夏休み期間中に早朝実施しました。

 また、地域への協力として小田急線鵠沼海岸駅で「無料貸傘運動」も主催しました。然し「貸傘」が返って来ないために1~2年で中止になりました。念願の慶應義塾への復興資金としては、昭和24年に5万円を学校に寄付しました。会員名簿が出来たのは昭和26年からで、2年置き位に発行しました。

 藤沢三田会の活動の特徴は当初より会員のみならず、その家族も含めた親睦を重視したものであり、従って当会は家族ぐるみの会と云うことが出来ましょう。

 創立前後において忘れられないのは、昭和44年に早くして亡くなられた故五島岩四郎君(昭和22年経済卒)の存在でした。彼は一口で云えば所謂秀才であり、愛校心の固まりのような人物でしたが、本人自身の「僕は慶應気狂いの三田気狂いだ」との発言通り、彼が当会に注がれたエネルギー、当会に対して尽くされた大きな功績は筆舌に尽くし難いものでした。これらの事情が相まって、藤沢三田会は割合すんなりと誕生しました。

2. 昭和30年代(西暦1955年~)  藤沢市が大きく発展したのは昭和35年の高度成長期以後であり、人口の増加も南部を中心に次第に北部に及びました。それに伴い会員数も200~300人へと次第に会らしい体裁を整え、総会も確実に開催されて会場も海浜ホテル、箱根小湧園、交詢社等、後半は鵠沼公民館で行われました。会員名簿は昭和35年から毎年発行となりました(次ページへ続く)